近況とお題箱閉鎖について

恋々です。一月から二月のこの時期は、薄暗い日と身体の芯まで凍えるような寒さが続いて、どうにも春が待ち遠しくてたまらない時期ですね。凍えるような寒冷かと思えば春じみた陽気が差したり、そういった季節に振り回されるのは辛いものですね。疫病の拡がりや、それに対する警戒心に心身ともに疲れてしまって、なんだか今年の冬は長く、冷たく感じますね。

私も折り曲げた背中がまっすぐにならないほど、気持ちに安定がありません。やはり冬は鬱屈とした気分になるからたまらない。衝動的にラジオを収録したりしたのですが、やはり聞き返してみると言いたいことの十分の一も言えていないような気がして心底腹立たしいです。とはいえこれを恥と削除するのもなんだかもったいない気がするので置いておきましょう。もうすこし整頓して喋るなりまとめるなり出来たら良いのですが。


ザミャーチンの「われら」は非常に魅力的な物語です。ある数学者の手記によって綴られる物語には、科学技術の発展により「完璧な数字」によってコントロールされた素晴らしい世界への生き生きとした信仰心と、ありとあらゆる数式で表すことの不可能な他者へのごちゃついた感情が爆発的に描かれている。主人公は説明的ではなく、自分の感性が受け取ったものをそのまま読者に伝えてくるのですが、それは異世界の言葉で表現され、視点は常に移ろい変わり、そのため読者は彼の一人称視点に翻弄され続けます。彼は、「私」「われら」あるいは「彼」「かれら」そして、「おまえ」「あなた」という言葉を使い分け、その言葉を呪いのようにも感じます。社会集団を構成するひとつの細胞としての自信に満ち溢れていた時、彼は己を集団と同化させ「われら」と言うのですが、あきらかな異分子を、そして己の感情をかき乱すそれに対しては「おまえ」と…「彼」と呼ぶのです。

「われら」という言葉は己が所属するコミュニティへの信頼が現れる言葉であると感じます。こんな風に一人称複数形を意識することはあまりなかったのですが、改めて考えてみると、インターネット上で起こり得る議論というのは「誰かが集団の代表を務める」発言が多くみられるような気がします。身近な話ならばオタクとは腐女子とか。それは大多数の集団があたかも自分と同一の意思を抱えていると断じ、自身を集団の代表としてとらえることによって、自身の意思を集団の意思そのものであると決める行為に他ならない。この場でそれが良いだとか悪いだとか、批判する意図はありませんが、私は「私たち」という言葉を使うとき、そこにどんなリスクが生じるか常に考えてしまうのです。というようなことを、「われら」という小説を読んで思います。


話は変わりますがお題箱を閉鎖しました。時折投げ込まれる励ましや感想のメッセージは非常に私を助けてくれていましたが、中にはすこし足を止めてしまうような、悩んでしまうようなメッセージも送られてきて、それを四六時中受け取る度胸は私には足りないな、と感じる次第です。いまは作品投稿のペースも下がっていることですし、一時的に閉鎖し、また感想が欲しくなった時には開こうと思っています。

もしもお題箱が開かれる時を待てず、いますぐ私になんらかのメッセージを送りたい場合はDMやメール等で送っていただけると助かります。前々から、匿名と、そうでない発信者の立場は常に同じ地平ではないのにも関わらず、対話を試みたいと思う瞬間があることへの苦痛は少なからずありました。ですからどうか、私が私という存在であることに意味を求めるのであれば、あなたの名前も聞かせて貰えればうれしいのです。

再度ですが、これまであたたかなメッセージを送ってくださった皆様、本当にありがとうございます。また開いたときにはぜひ何か投書してくださいね。


あと、私が好きで、好きすぎて困っちゃうくらい大好きなpixiv小説のkindle再録版が発売されました。もしグロエロ性格悪いやつが大丈夫、むしろ大好きという方がいらっしゃったらぜひ読んでください。私はこれで気がおかしくなりました。


真了…好きだ…kiss…